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どうでもいいツッコミの集大成です。 やる気ですか?ありません。ケツがかゆいです。
Author:poolshark
■1975年11月 東京葛飾柴又近辺、中川の土手でダンボールに入っているところを発見される。発見者は金属加工会社社長の金子又作氏(54)。私が入っていた三ケ日みかんのダンボールには何故か「第一印象から決めてました」との手紙。その後孤児院に入所し半年が過ぎた頃、子供が出来ずに悩んでいた老夫婦に養子として迎え入れられる。
■養父母が弁護士であったこともあり、はじめて発した言葉は「異議あり」であるというませた子供だった。幼少時代の教育は「世界を見ろ」であったために、10年間の間に7カ国で生活をする。両親と会うのは年に3回程度、あとは各国にいるホストファミリーや親族との生活。この期間中に6ヶ国語をマスター。
■中学生になると同時に帰国し、一人暮らしをはじめる。海外生活が長かったために日本の学校生活やクラスメイトになじめず、社会勉強のために年齢を詐称してホストクラブでバイトを始める。最初はホールには出ず裏方だったが、その後ヘルプとしてホールデビュー。それから3ヶ月後にナンバーワンになり、以後バイトを辞めるまでの1年の間ナンバーワンを守りつづけた。
■中学三年生当時に海外留学を希望、単身渡米。学友となったユダヤ系米国人のジョシュと共に報道カメラマンの道を志す。当時湾岸戦争終結直後で不安定であったイラクに渡り、「a naked man」という作品でピューリッツア賞最終選考に残る。その後ジョシュと渡ったソマリアでアイディード派民兵に捉えられ、ジョシュは未だ行方不明のままだ。
■たまたま民兵幹部の弟と米国で知人であったために意気投合、民兵には丁重に扱われ、半年間の捕虜生活の間にソマリ語を習得。何かと世話を焼いてくれた学生民兵のオガデン(18)の説得もあって捕虜の身から開放される。モガディシオに帰還した時、養母に号泣しながら怒られたのを鮮明に覚えている。
■20歳日本に帰国。平和な日本にリアルを感じることが出来ず酒浸りの日々を送る。やがて新宿界隈を根城として、1年をホームレスとして過ごす。その後ホームレスを組織化して日雇い労働者の派遣組合を結成。理事長に収まり運営したその会社はその後ベンチャービジネス大賞を受賞。
■日々を仕事に明け暮れる生活に嫌気がさし、全てを捨てたくなったために理事を退任。世界中を巡るバックパッカーになる。その後、アフガニスタンの子供達に生きる手段を教えるために移住。現地で孤児であったサハム(6歳)を息子のように育てる。我が子の成長を見るような幸せな日々だったが、サハムは原理主義を標榜するイスラム聖戦士団の兵士に目の前で射殺された。
■このときの悲しみは深く、世界が真っ暗になったようだった。すさんだ日々。それを救ったのはかけがえの無い友人であった。
■その友人の勧めで日本に帰国。その後就職、現在にいたる。